「ハーイみや! あたしよ、ア、タ、シ!」
2年に一度ほど、突然電話してくる女友達がいる。
彼女はオランダに住んでもう20年を越す。
オランダ人と結婚して彼の国へ行き、子供を持ち、離婚し、離婚した後も日本に帰ることなくオランダで母子家庭のまま、一人息子を育て上げた。
もともとアメリカで生まれ育った帰国子女でバイリンガルだった彼女は、日本語と英語にさらにオランダ語もマスターして、通訳として働きながら暮らしている。
美大出身で、日本にいるときから人形やオブジェを造っていたが、今も働くかたわらオブジェを造り続け、オランダで個展などもやっているようだ。
「あっちのほうが、働きやすいし、制作もしやすいし、子供も育てやすいし」と、最近とうとう郊外に家まで買ってしまった。「よっぽどヨボヨボになるまで帰りそうにないな、ありゃ」と、友人達は噂している。
今年は正月に帰国したばかりなのに、3月にまた「ハーイみや!」がかかってきた時、すぐにここ3年ほど病んでいた90になる彼女の父親のことが、頭をよぎる。
「M、あんた、お父さん!」
「そうなの。16日に亡くなった。倒れて意識のないまま2週間後にね。家族みんなに見守られて、眠ったまま静かに逝ったよ。
もう何もかも済んだ。あたし1週間後にオランダに帰るんだけどさ、会わない?」
春の一日を、彼女の実家がある鎌倉山で、コスモポリタンの悪友と過ごす。
●──ダディの死
鎌倉山の日本庭園が自慢の蕎麦屋で、遅めの昼飯。
「ちょっとすいません! ここにお茶ください」Mは、愛想の悪い店員に何度も叫ぶ。
「あんた、また声がデカくなったわね」
「オランダ人は身体もデカいけど、声もデカいからね。小柄で華奢な東洋人は、せめて声だけでも負けないようにしなきゃ」
やっとお茶を持ってきた店員に、「さっきからずーっと頼んでたんですよ、もう4回も!」と、さして怒ったふうでもないが、一言きっちりとモノを言う……はぁ、コイツ中身までますますガイジンになってきたわ。
「天ぷら蕎麦にしようか、ニシン蕎麦にしようか、とろろもいいし……ああ、日本ってどうしてこう食べ物がおいしいんだろ。また太っちゃう」とさんざん迷ったあげく、天ざるに決定。
「ところでM、お父さんの最後に間に合って、本当によかったねえ」
「うん、それは良かった。私と息子が日本に着いて1週間目だった。ダディ、待っててくれたのよ。
でも、倒れてからはもう全然意識は戻らなくってね。それでも心臓だけは丈夫だから、栄養剤の点滴でもってたのね。
もっともダディの場合、2年くらいまえから完全に痴呆に入っちゃってたからね。正月に帰ったときだって、私が娘だってわかんない状態だったから……意識が無いっていってもねえ。
それでも、それが不思議でさあ、亡くなったとたんに顔がすーっと変わったの。昔の大好きだった優しいダディの顔になったのよ。
マミィなんて、『ああ嬉しい。昔の優しくてハンサムなダディが戻ってきた! ここ何年か、痴呆という病気がダディの本当の姿を隠していたのね。これが本当の姿なのよ』って、そりゃ喜んでたわ」
「最後の最後に、お父さんが帰ってきたんだね」
「本当にそんな感じなの。
それはきれいな死に顔だった。おまけにさ、入ってた病院のアフターケアが、そりゃごていねいなことで……」
突然、Mは苦しそうに吹き出した。
「死に顔が美しくあるようにって。死ぬとどうしても口が開いてしまうじゃない、口が開かないように太い白いゴムを、看護婦さんが顔にかけてくれるわけ。
それがさあ、その白いゴムの頭のてっぺんのところに、白いレースの飾りが付いてんのよ。ウエイトレスの頭飾りみたいにさぁ。
みんな『唖然!』として、それでも黙―ってじっーと、白いレース飾りつけられたダディの顔見つめてたの……そしたら、お兄ちゃんのお嫁さんがぼそっと言ったのよ。
『男物はなかったのかしら?』って。
その言葉に、みんな必死でガマンしてたのに、たまんなくなって一斉に吹き出しちゃってさ。ダディの枕元でみんなで泣きながら大笑いよ!」
私は、「レースの頭飾りを付けられたダディのデスマスク」のシュールさに度肝を抜かれ……次にMがその真似をしたものだから、涙が出るほど笑ってしまう。
●──延命装置
Mは、運ばれてきた天ざるのエビやらレンコンやらを一つ一つ、食べる前に愛でるように眺めながら、「うまい!うまい!」とパクパクと食べていく。
私は、彼女の言葉遣いにますます男言葉と女言葉の使い分けがなくなり、ある意味ではとてもシンプルな日本語になっていることに、ふと気がつく。
「ところがさあ、あたし、お兄ちゃんと大げんかしたんだ。それもダディの枕元で」
「なんでまた? だいたい、あんたがお兄ちゃんとけんかした話なんて、今まで聞いたこともないけど」
「あんまりけんかしたことないもの。
実はねえ、あたし、病院のダディの枕元でお兄ちゃんに、『延命装置を外してよ!』って言ったのよ。
母とお姉ちゃんは私と同じ考えだったと思う……でも、お兄ちゃんがね」
蕎麦をすすりながら、Mは深刻なことを淡々と言う。
「お兄ちゃん、お父さんに少しでも長く生きていてもらいたかったんだ」
「うん。意識もない。絶対に病気が治るあてもない。死を待ってるだけの。心臓が丈夫だから、身体だけが生きているダディにね。
それで、ただ生きているだけならまだいいの。
痰が絡まって呼吸が出来なくなるから、時々痰をとる機械を喉に突っ込むんだけど、それをされるたび意識のないダディが身体中ビクンビクン震わせて苦しがるの。
いくら意識がないからって……栄養剤だけはたっぷりと点滴されてるから、おでこなんかつやつやのピンクでテカテカ光っちゃってさ。で、痰をとるいやな音のガーガーいう機械を喉に突っ込まれるたびに、意識が無いままに苦しがって、苦しがって……私、見ていられなかった」
コイツは哀しそうにそんな話をしながらも、突然ひょいと「ダディのつやつやのピンクのおでこ」の真似をしたりするものだから……私は、口の中の蕎麦を吹きそうになる。
「みや、蕎麦お代わりしようよ」
「よし! じゃあ盛りをもう一枚」
「あたし、今度はとろろの冷たいほうにしようっかなっと!」
私たちは大笑いしてるわりには、実に深刻な話をしながら、それでもメニューをとっくりと眺めて蕎麦のお代わりを注文する。
「Mのお兄ちゃんの『少しでも長く生きていて欲しい』って気持ちも、わからなくはないけど。
しかしそういう状態の人間を、身体だけ生かしておくってことに、いったいどういう意味があるのか……私、やっぱりわかんないなあ。
それってさ、私、生きてる人間のエゴじゃないかって気さえ、しちゃうなあ」
「でしょう! でさ、『延命装置を外すべきだ!』って言った私に、猛烈な勢いでお兄ちゃんが怒鳴ったのよ。
『外国に暮らしていて、たまにしか帰ってこないおまえに、いったい何がわかるんだ! 俺たちはここでずうっとダディの病と戦い、見守り、痴呆を介護して、大変な思いをしてきたんだぞ。たまに帰ってくるおまえに何を言う権利がある!』
ってね。で、私も怒鳴り返した。
『ずっとダディの側にいたからって、介護したからって、介護が大変だったからってエバんないでよ! 私だってダディの娘なのよ! 最愛のダディが、苦しまないで楽に逝くことを願う権利があるのよ!』
って。でも、けっきょく私とお兄ちゃんが大げんかしたおかげで、『これからは少しづつ点滴の栄養剤を薄めていこう』って話に落ち着いてね。
そんな矢先に、亡くなったのよ」
●──自立した死
「私さあM、あんたの言うこと正しいと思う!
お兄ちゃんにそう言われても、きちんと言い返したあんた、えらいと思うよ!」
そして、Mがもう半分オランダ人になっていることを考える。
安楽死が合法化されている、オランダという国。
マリファナなんか個人の責任だと、合法化されコーヒーショップで販売しているオランダという国。
同性愛者同士の結婚を、異性間の結婚と差別してはいけないと、法が定めているオランダという国。
そういう国に住むMなのだ。
半分オランダ人のMには、父親のそういう状態は、人間として許し難いほど哀しいことに映ったのだろう。
自力で何をすることも出来ない。意識さえない。それでもそういう状態を人々の目にさらしながら、苦しんで生き続けなければならない父親が、可哀想でたまらなかったのだろう。
「人間には、『尊厳を持って死ぬ権利』があるんだよ。ダディにも。私にも。誰にでも」
とろろ蕎麦をずるずるとすすりながら、Mはぼそりと言い。さらに続ける。
「私はさぁ、自分が癌かなんかでもう治んないってわかったら、どっかで神様が、『オーイ! おまえの番だぞー』って言ってるのが聞こえたら、病院に入院する時点ですぐにサインするよ。それは、もうずっと前から心に決めている!」
「ああ、いわゆる『リビングウィル』ってやつだ。『不治の病の末期に意識がなくなったとき、いっさいの延命と、無意味な苦痛を拒否します』って、やつだね」
「そう。それに『見苦しい姿を人にさらすことの拒否』っていう、自尊心という意味もあるね。まだ理性があるうちに、医者ときちんと書類を交わしておくの。
だって、死は私の権利だもの」
「死も自立してるってことかァ……『自立した死』ってことかァ……
しかしさあM、死まで自立するって……考えようによっては、決して自分に甘えの許されない、ずいぶん『厳しい発想』なんじゃないの?
安楽死を合法化するってことは、当然その前に前提として『告知』があるんだろうし。日本では、まだその告知だって問題になっている最中だよ」
「でもさぁ、人間なんて誰だって必ず死ぬんだよ。あたしも。あんたも。みーんな。
告知もされず、わけわかんないままに苦しんで、人に見苦しい姿さらして、身体だけ生きながらえさせられることのほうが、よっぽど残酷じゃない?」
「うーん、それはそうだ!
それにしても、それでも安楽死を認める社会ってのも、それはそれでやっぱりなかなかシビアで厳しい社会……という気もするなあ」
「でもねえ、私はオランダって日本よりよっぽど人間に、特に弱い者に対して、優しい社会だと思うよ」
蕎麦チョコに蕎麦湯を注ぎながら言うMに、私はコスモポリタンの魂を持つMがオランダという社会を選んだ根拠を、少し見たように思う。
●──桜の季節
蕎麦屋を出ると、日本庭園では満開の桜が雪みたいに散っている。
「そういえばM、あんた日本に帰ってくるのはいつもバカンスの夏休みか正月ばっかりで、ここ20年桜の季節に帰ってきたことはなかったよねえ」
「そうなのよ! 今回は、ダディが桜の季節に呼んでくれたの」